WFPエッセイコンテスト2014 入賞作品

中学生・高校生部門賞 「いただきます」のない国で
東京都 慶應義塾女子高等学校 3年 渡邉 優理(わたなべ ゆり)さん
 昨年一年間、私はアメリカに交換留学をした。人口七千七百人の小さな、そして比較的貧しい町。そこで通った高校で、私は皆に優しいシェリーナという女の子と仲良くなった。

 ある朝、私は、通常よりも随分早く学校に着いた。静まり返った校内を散策していると、食堂に幾人かの生徒がいることに気付いた。シェリーナもいる。彼等は朝食を食べていた。

 私も一緒に食べようかな。何の気なしに私が放った言葉に、一瞬食堂内が静まり返る。あれ、英語を間違ってしまったのだろうか、と少し慌てた矢先に、シェリーナが言った。

 「私たちは、家庭の経済的な理由から、家で朝食をとることができないの。でも、幸運なことに、州からの援助で無償の朝食を頂いている。昼食も同じ。そうじゃなかったらご飯を食べられない。あなたは違うでしょう?」

 ハッとした。飽食とうたわれる今の先進国の一つで、何不自由なく育った私。冷蔵庫を開けば、近くのコンビニに行けば、二十四時間三百六十五日、いつだって食べ物を得ることができる。食べ物が溢れているのが当たり前だった。私にとって食べ物は、生死や命とは離れたところに、一種の娯楽のような形で存在していた。

 ものを食べることができるということ。それがどれだけありがたいかということ。あの日の朝の彼等は、自分の命のために頂くという食本来の意味を、身をもって理解していた。そしてそれを享受することの有り難みも、それが当たり前ではないことも、きちんと噛み締めていたのだと思う。

 私たちは、命を頂いて、命を繋いでいる。忘れていた感謝の気持ちが、「いただきます」の言葉も「ごちそうさま」の言葉もない、異国の地で、意外なかたちで蘇った。

 「いただきます」

 今朝も私は元気よく言う。ありがとうの気持ちを込めて。